連載

八十三年の記憶 -11-

義務教育であった尋常小学校を卒業後進学せず勤労につく者を対象とした教育の場として、青年学校は昭和10年に始まりました。その教科内容の中には修身、公民、職業などのほか、軍事訓練である「教練」も含まれていました。義父が外地へ招集される前、あるい…

八十三年の記憶 -10-

「つづく」と言いながら何年も休んでいた義父の手記の紹介を再開してみようかと思います。なお、今までの文は、冒頭の「連載」をクリックするとご覧いただけます。 六、平和への願いを込めて 帯広空襲の碑 この碑は「帯広総合体育館」前庭、帯広警察署東側と…

八十三年の記憶 -9-

五、帯広空襲と特設警備隊 昭和二十年七月十五日朝食後けたたましく鳴り響く本部防空警報が空襲警報に代わった「北部空襲警報、敵艦載機七十八機(そのように記憶している)只今大楽毛上空通過、帯広方向に進行中」

八十三年の記憶 -8-

五、帯広空襲と特設警備隊 昭和二十年六月二十五日防衛召集、幹部教育のため釧路地区第三〇七特設警備工兵隊(帯広柏校)に入隊。同二十九日召集解除。同年七月十一日防衛召集、兵教育のため同隊に応召。

八十三年の記憶 -7-

四、我が部隊 沖縄に散る 沖縄戦参加 総人員 二三〇三名 戦死広報 二一〇八名 転出 一九名 米軍上陸前の戦死者 七名 生死不明 一名 復員 一六八名

八十三年の記憶 -6-

三、青春の試練 満州篇 庶務室では部隊副官村○勇砲兵中尉(後日召集でサイパンへ往き戦死)甲書記小○○郎砲兵曹長(沖縄戦死)福○○一砲兵軍曹と藤○○男君と私の四名、

八十三年の記憶 -5-

三、青春の試練 満州篇 野砲兵第四十二連隊 秘匿名 山三四八〇部隊 中支から帰還して束の間、久しぶりに見る我が家の作物も青さを増す頃、七月十七日旭川北部第六部隊に入隊せよとの召集令状を受け取った。関東軍特別演習である。昭和十六年七月初めの事であ…

八十三年の記憶 -4-

二、青春の試練 中支那篇 中川部隊本部は隷下隊は四十七ヶ隊あり、一万五千余の部隊であった。私は庶務室勤務になり今回帰還する白○○雄さん(和寒出身)の交代であった。松○君は隷下四十七ヶ隊全般を扱う郵便係であった。二人共同じヶ所で帰還まで勤務する。

八十三年の記憶 -3-

二、青春の試練 中支那篇 第十一軍第十一野戦勤務隊本部 戦局は日増しに深刻なものとなり私も昭和十四年五月一日教育召集のため上川郡当麻村当麻演習場新廠舎(しょうしゃ)(輜重隊(しちょうたい))に入隊することになった。

八十三年の記憶 -2-

一、戦争 帯広空襲 終戦 終戦の日 古舞では

八十三年の記憶 -1-

私の義父は大正6年生まれで、中国・満州に出兵し、帰国後帯広空襲を経験しました。もう6年前に亡くなったんですが、そんな義父が83歳の時に人生を振り返って書き留めた文集があります。それをこれから何回かに分けて紹介したいと思います。なお、文中の色の…