戦後開拓

 「なつぞら」は戦後すぐの十勝、東京からやってきた貧しい家族(山田天陽)の藁葺きの家が印象的でした。なつがともに暮らす柴田家のような立派な家よりむしろこういう家の方が戦後すぐは多かったように思います。私が物心ついた頃にも、戦中戦後住んでいた古い家が残っててその記憶がほんの少しあります。

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 百姓(笑)庵の常連の五味和男さんが、ご自分の小さい頃の記憶を書き留めたスケッチ集"東京大空襲「記憶」"の中の一枚(↓)が思い出されます。

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 五味さんは、両親とともに戦後すぐに十勝にやってきました。7歳の時のことです。添えられた文章を紹介します。

 昭和二〇年 晩秋  枯れたとうきびがカサカサと鳴っていた

 「北海道に行けば家もある。食べ物も…」

時の政府が考えた東京の口減らし策だった。他人をけっして疑わない父だった。

「そんないい所なら頑張って米作る」と意気込み、我が家は"戦後開拓者"一群に入り、北海道へ--。

<のちのおふくろの話>

「止若駅(現幕別駅)で汽車から降ろされ、何時間も馬車に乗せられた。途中小さな街(糠内)についたのでほっとしたら「まだここから2時間ぐらいかかる」と言われだんだんと心細くなった。……「ここだよ」と馬車が止まった時にはもう真っ暗で疲れ果てそのまま寝込んだ…」

 翌朝、明るくなったあたりを見まわして、自分たちが想像していたものとはあまりにも違い愕然としたそうだ。ともあれ、電気などない、水も沢を下って汲み上げ…ここからドラマではない本物の北の国のくらしがはじまった。

  この「本物の北の国のくらし」のことを時々五味さんが話してくれました。いろいろな出来事が記憶に残っているけど、スケッチ集はこの一枚が最後となっています。