八十三年の記憶 -11-

 義務教育であった尋常小学校を卒業後進学せず勤労につく者を対象とした教育の場として、青年学校は昭和10年に始まりました。その教科内容の中には修身、公民、職業などのほか、軍事訓練である「教練」も含まれていました。義父が外地へ招集される前、あるいは帰還後において青年学校でお世話になった人々の名前が紹介されています。


七、銃後
 「盡忠報國、一億一心 欲しがりません勝つまでは」日本国民は必勝を信じ、事変勃発以来八年一ヶ月余りの長期戦に臨んできました。
 私は銃後の努めと言っても戦地から帰還後、終戦まで一年八カ月しかありませんので、帰還以前の銃後の動静は残念ながら認識不足で極めて不案内です。只衣食住総てが極度に疲弊していることが如実に感ぜられました。総て配給という厳しい制度で取り締まられ七分搗きの配給米を一升瓶に入れ棒で突いて精米している光景があちこちで見られ又、衣類も質素になり昔の物を着潰して元の生地がどれだか判らぬ程に変わっていました。
 私は戦地にあって、七十近い両親が五ヵ年の間農業を続け留守居をしておりまして銃後の皆様の至れり尽くせりのお世話様になっておりました。心から感謝しておりました。帰還後百姓は一年生に逆戻りしたような不器用な農業に必死でした。男子の大半は招集され戦場にあり、数少ない中で青年学校の指導員と時折り幕別村内の在郷軍人(殆どが未教育の者)の教練指導のため止若市街に引き出されていました。
 幕別在郷軍人分会では当時分会長は輜重兵中尉一宮j○熊、幹部では獣医務中尉山○栄、軍医中尉影山○夫他下士官が当たっていました。
 また青年学校も昭和十九年四月より村内の青年学校と統合し、中島○男先生が初代青年学校長に就任し、専任教官に山中○三軍曹、永井○三上等兵が就任、東部(止若)西部(白人)南部(糠内)の教練科の指導を各地を巡回して当たっていました。
 この年から教練科の指導員を教官と呼称しました。
東部、森本○幸軍曹、富谷○一伍長、逢坂○市上等兵
西部、工藤○明伍長、加藤○左衛門伍長、岸上○郎上等兵、古田○司伍長、高橋実吉伍長
南部、小丹枝○成伍長、長崎○之助兵長、高垣○二郎兵長、森田○太郎上等兵
が嘱託されました。
 これまで青年学校指導員をされた方々も交る交る招集を受け外地または内地に勤務していました。
青年学校普通学科の先生では記憶にあるのは長尾礼三先生(現帯広市長尾外科病院長)女子の先生では渡辺○子先生(旭川より赴任していた。)中支時代お世話になった先輩渡辺○備さんの妹で二十年正月休暇で帰った時兄から聞かされたと言っていた。
 又古舞地区の青年学校生徒で今でも印象にあるのは、古舞小学校の先生で大村○雄先生と三○○夫先生の事です。学校の先生でしたが、教練の時間になると、みんなとともに教練に励んでいました。両人ともまだ年が若いようでしたが、一生懸命だった姿が今でも目に浮かびます。大村先生はどうなったか…、三○○夫先生は音更町柏町南区の住宅にあり士幌校で教鞭を執っています。古舞にも現在教え子がいます。


 青年学校の指導員には復員した在郷軍人が当たっていました。おのずから銃後においてもそしてこんな田舎においても戦時色がますます濃くなり子供から年配者まで総動員で戦争状態に突入して行ったかのように思えますね。
 また録画していたNHKの番組を観ました。「731部隊」「インパール」そして「樺太地上戦」…。気持ちがどんどん暗くなるばかりです。事実はこうだっただけじゃ、腑に落ちない。その時誰の判断が間違っていたのか、どう判断すればよかったのか、ちゃんと示してほしい。今の政治が間違った方向に行かないために、少しでもいいから未来に明るい道筋を示してほしかった、そう思いました。こんな番組じゃ視聴者が落ち込むばかりです。