八十三年の記憶 -2-

一、戦争 帯広空襲 終戦
     終戦の日 古舞では

 昭和二十年八月十五日終戦
丁度其の日は朝から、部落で数少なくなった在郷軍人の教練実施後、午後是からの義勇隊の名簿を作成していた午後二時頃、札内市街へ配給品を受領に行っていた確か井○○一さんの配給係だったと記憶している。
「日本が負けたそうな。天皇陛下がラヂオでお話しされたそうな」と青ざめて帰ってきました。
「そんな馬鹿な」と誰も信ずる者はいません。
けれどあまりに真剣なので、晩方になって真相を確めるため大正市街へ聞きに行きました。
大正市街の人々も三々五々電話の周りや軒下でこそこそ話をしていました。声を出す者もいませんでしたが、敗戦は本当でした。翌日からはそれまで曇天続きだった空もそれから焼けつく様な太陽が毎日照り付けていました。
 無条件降伏と言うので青年学校の模造の銃、銃剣、牛革の背嚢まで、進駐軍に受け渡し、それから何日か経って古舞神社の境内に於いて幕別在郷軍人分会古舞班の班旗と軍隊手帳をみんなで涙ながら焼却しました。
旗手だった佐○○正さんの悲壮な顔が目に焼きついています。
 八年二ヶ月に亘る長い戦争も神国日本を敗戦という形で終焉に至りました。
 大きな大きな癒すこと出来ない傷跡を残して……
                              (つづく)


 義父は当時、幕別町古舞(ふるまい)の農家の後継者でした。写真は出征したころの義父です。


玉音放送は、ウチの父(昭和3年生まれ)も聞いていたようで、「負けたんだ。殺されるかもしれない」と思ったとその時のことを振り返っていました。調べたらネットに上げられていました。私には一度聞いたぐらいではとても理解できませんね。。→玉音放送