八十三年の記憶 -1-

 
 私の義父は大正6年生まれで、中国・満州に出兵し、帰国後帯広空襲を経験しました。もう6年前に亡くなったんですが、そんな義父が83歳の時に人生を振り返って書き留めた文集があります。それをこれから何回かに分けて紹介したいと思います。なお、文中の色の薄い文は私の注釈です。
[:W240]

八十三年の記憶             高橋 実吉(たかはし みよし)

一、戦争 帯広空襲 終戦
     私はその時防衛召集で帯広に居た


 昭和六年以来の中国との宣戦布告なしの抗戦が昭和十二年七月七日夜半に勃発した盧溝橋事変を契機として全面的な日支事変と発展、昭和十三年に入って戦局は抜き差しならぬ長期化の様相を呈してきた。
 昭和十八年十二月十八日太平洋戦争に突入した頃から全世界を敵に廻し、日本は敗色濃くなり、南方諸島に於いての玉砕を始め、サイパン、メレヨン沖縄島に於ける全軍玉砕そしてじりじりと本土に敵は爆音を轟かせて押し迫ってきたのである。(注1)
 波打ち際で肉弾と竹槍を以て迎へ打つ戦法も、神代の昔から敵に侵された事のない日本が遂に神武天皇の弓の先に止まった金の鵄も現れず、元寇の役の時のような神風も吹き来らず、祖国の危機に忠勇なる兵士として徴用された男子七二〇万の中、戦死者約一五六万という大犠牲を蒙り「敗戦」と言う名で運命大回転の終焉を告げたのであった。思えば長い長い八年二か月の戦争であった。
 幸いにして我が郷土十勝は災害を蒙らずに終戦を迎えることができた。
 国破れて山河あり。昭和二十年八月十五日終戦、八月六日には広島にアメリカの原子爆弾が投下され二十数万の尊い人命が一瞬にして奪われた。八月十四日政府は遂にポツダン宣言を受諾して全面降伏、翌十五日正午、天皇陛下のラヂオ放送によって無条件降伏を知った。
 日本が降伏したと知った時、不安と安堵と虚脱の入り混じった複雑した気持ちが皆を覆った。
 戦後は早や半世紀以上の歳月は流れ去りました。
いま日本は経済国家として世界各国が羨む程の発展を遂げ更に躍進しています。長く苦しかった戦いに傷つきやっとの思いで終戦を迎えたとき、誰が今日あることを予想したでありましょうか。それは長期戦後の衣食住総てが不自由なとき、逸早く祖国再建に立ち上がり技術開発と共に諸産業の振興に取組んだ国民の英知と努力と勤勉に依るものですが、それを支えたものはこれ迠(まで)の平和が続いたことです。
 戦後生まれた人がもはや五十才を超えました。
「戦争を知らなかった」事は誠に幸せですが、あの残虐な戦争を再び繰返さないよう戦争の悲惨な体験や銃後を守った苦難及び非戦闘員の悲劇の情景を語り伝え「戦争があった」事を忘れない事もまた今後平和を守るためには大切なことであると思います。
                                   (つづく)

注1
 年表によれば、太平洋戦争の始まりは、真珠湾攻撃のあった昭和16年12月8日であるが、日本の敗色が濃くなったのは昭和17年6月5日のミッドウェイ海戦以降のことです。昭和18年5月12日にアッツ島で初めての玉砕、サイパンの戦いは昭和19年7月7日、メレヨン島の悲劇は昭和19年2月に始まりました。