八十三年の記憶 -3-


二、青春の試練   中支那
          第十一軍第十一野戦勤務隊本部


 戦局は日増しに深刻なものとなり私も昭和十四年五月一日教育召集のため上川郡当麻村当麻演習場新廠舎(しょうしゃ)(輜重隊(しちょうたい))に入隊することになった。

召集のため、故郷を同時に出発する秋○○治、多○○雄、三○○夫、久○○男、小生の五人は古舞神社に於いて武運長久の祈願を受け、部落の皆様、小学校生徒の打ち振る日の丸の旗に送られ、愛国駅を出発、翌五月一日当麻演習場に入隊することができた。
 襟には藍色の兵科章(へいかしょう)に数字の7の聯隊章(れんたいしょう)、肩には燦然と一つ星が輝いていた。

 それから毎日昼間は輜重車を挽いての輓馬(ばんば)教練、夜には学科の詰め込み、一か月教育も終わり検閲の日、佃部隊長は講評の中で教育期間中引き続き臨時招集に切り替えられた旨伝えられ、そして「お前たちは中支戦線に往く事となった。若くして克(よ)き死に場所を選んだ」と言うのである。
 こうして青春の夢も自由も希望もかなぐり捨て、只管君国のおんため戦場に向う事になったのである。二十三才であった。


 昭和十四年六月九日旭川発、十一日東京着麻布区飯倉町会社員志○○治様宅に今は亡き吉○○雄(芽室)谷○○君(御影)と御厄介になる。十二日昼頃芝浦港出帆御用船の人となる。生きて再び見る事が出来ないであろう故国、特に初めての終りであろうと戦友共々富士の秀峰を眺めていた。あの玄界灘も凪いでいた。

 十六日中国呉松上陸、初めて異国の地を踏む。二十七日九江着。荒れ果てた宿舎では髭茫々の古年兵がいて、ドラム缶で風呂を沸かしてくれる。交互に入浴する。

 硝煙腥く(しょうえんなまぐさく)傍らの水面には中国の死体が浮かんでいた。


 鄱陽湖(はようこ)の両岸を眺めながら逆上、呉城着。之も荒れ果てたお寺に泊り異様な啼き声マラリア蚊と蝙蝠(こうもり)の群に驚かされ乍ら一夜を明かし七月一日南昌着。ここは昭和十四年三月二十七日占拠した街である。
 私達の追いつく齊藤隊はここにあった。
隊長以下三二一名の隊に私らは第一次交代兵と二十三名到着したのである。隊は三十名の班が十二ヶ班あり、その中所属する班が決まり、私は第三分隊の第十一班に決まる。第十一班の勤務先は中川部隊本部(第十一野戦勤務隊本部)で武漢の武昌にあり、四〇〇キロ距っているという。
私と松○○三君(釧路)の二名は白戸見習士官に連れられ七月十五日武昌本部に着く。
                              (つづく)


旭川近郊に陸軍の当麻演習場がありました。徴用された人々を一人前の兵士として勤まるよう教育するための施設でした。私の父の兄も始めはそこへ出征して行ったとのことです。輜重隊というのは輸送を任務とする部隊のことです。

義父の一度目の出征は揚子江(長江)の中流にある武漢のそば、武昌でした。高校の地図を用意したので参照ください。

死体が浮いていたという九江はあの南京の上流です。南京事件昭和12年のことですから、義父はその2年後にその近くへ赴いたことになります。