八十三年の記憶 -4-

cannon2013-08-18



二、青春の試練   中支那


 中川部隊本部は隷下隊は四十七ヶ隊あり、一万五千余の部隊であった。私は庶務室勤務になり今回帰還する白○○雄さん(和寒出身)の交代であった。松○君は隷下四十七ヶ隊全般を扱う郵便係であった。二人共同じヶ所で帰還まで勤務する。
 庶務室では部隊副官岡本○○(砲兵中尉)書記長○○作(輜重兵曹長)書記手伝稲○○衛(上等兵和寒出身)と私とで受け持っていた。隣の部屋は中川○○隊長(歩兵中佐、名古屋出身)室で庶務室に入って来られ、いろいろ故郷の話などしておられ優しい方でした。
 庶務室では部隊要員の伝令が毎日対岸の漢口まで命令受領に行き、隷下四十七ヶ隊に命令下達、作命、功績業務に携わっていました。
さあれ第十一班は本家より特に離れていたけれど班員一同克く提携してその本分を自覚し至誠の真を盡していた。
 今静かに瞼を閉じればあの温和な部隊長、コンピューターの如くきれる岡本副官、そして第十一班の戦友の顔、又本部の中庭の夾竹桃、宿舎の横の葡萄棚藤棚、石榴(ざくろ)の実、枇杷(びわ)の実、事務室と二階の部隊長室の窓に届く渋柿の木、リラの可憐な花が懐かしく目の前に浮かんでくる。
 生涯浮かんでくる光景である。
 又紀元二千六百年(昭和十五年)を寿ぐ奉祝歌が第十一軍司令部の屋上よりスピーカで毎日武漢地区の隷下部隊に向け流されていた事、今にして想えば感慨無量なものがあります。
 南昌到着以来参加した作戦は
自14.6.1 至14.10.31  襄東(じょうとう)会戦後の警備 贛湘(かんそう)会戦参加
自14.11.1 至15.3.9   十四年冬季作戦参加
自15.3.10 至15.4.28  十四年冬季作戦後の警備参加
自15.4.29 至15.7.31  宜昌(ぎしょう)作戦参加
自15.8.1 至15.9.30   宜昌作戦後の警備参加
 昭和十五年十月十日現地動員に依り我が隊はその要員となり大半新規部隊(第五十二兵站(へいたん)警備隊)に転属する。私らは過剰員として百十二名内地帰還の途につく。昭和十五年十一月九日武昌出発、同二十七日旭川北部第四部隊に到着、生きて再び故国の土を踏む事がないであろうと思っていたのに営門を出てから一年半ぶりに無事帰還出来た喜びを真白い雪の旭川で泌々(しみじみ)と味わうのだった。


 昭和十五年十二月二日 召集解除
 朝食後同部隊第二機関銃隊前に於いて第四部隊長金○○忠大佐より善行証書附与され帰還者一同に対し「君達は非常にご苦労であった。お前たちの帰還は一時の帰還である。銃後に帰ったら健康に充分注意して再度の応召に備えてもらいたい」と訓示を受け御門を後にする。

 十二月二日は帯広福井館で泊り翌三日愛国駅下車、部落の皆様の出迎えを受け、又久保○○郎さんの所まで迎えに出てくれた小学生一同に逢えた。みんな見違えるように大きくなりすっかり変わっていた。二年生位だったと思うが、○○秀雄さんが「実吉君、実吉君」と私の手にぶら下がって学校まで来た。そんな他愛もない思い出が蘇ってくる。その秀雄さんも今は佳い爺さんになっている。

 尚、我ら帰還後兵站警備隊に編成された方々は以前にも増して激烈な戦闘が繰返され第十一班だった角○○雄(雨竜)御○○夫(留萌)平○○夫(歌登)林○○助(伊達)長○○吉(下苗穂)が戦死されたと聞いた。


 23〜25才だった義父が過ごした戦地は中国内陸部揚子江沿岸の武昌と言うところでした。思い出は、優しい上官や戦友、庭に咲く花々…。
 でも、その間に行われた贛湘(かんそう)会戦〜宜昌(ぎしょう)作戦では、壮絶な戦いが繰り広げられ、多くの戦死者を出していました。義父はそのことについて少しも記述していません。生前も誰にも語っていないようです。