八十三年の記憶 -5-

cannon2013-08-19



三、青春の試練   満州
   
     野砲兵第四十二連隊
     秘匿名  山三四八〇部隊


 中支から帰還して束の間、久しぶりに見る我が家の作物も青さを増す頃、七月十七日旭川北部第六部隊に入隊せよとの召集令状を受け取った。関東軍特別演習である。昭和十六年七月初めの事であった。

 古舞部落では中○○治、久○○男、久○実、小生の四名。この時、私らの部隊、満州東安省西東安にある野砲兵第四十二連隊に送られた人員は一五一七名馬匹一一三五頭と記録にある。大動員であった。
 出発の日、富良野駅通過の時少し前応召したらしい愛国の高○○造さんが真新しい軍装姿で「大正村の人はいませんか」と大声で叫んでホームを走り廻っていたのを思い出す。目的地は中支と言っていた。
 私らの入隊した日が初日であったらしく、それから毎日応召してくる兵で兵室は満員となり。徴発されてくる馬匹で練兵場は一杯だった。七月三十一日夜十二時旭川出発、馬に草鞋(わらじ)を履かせ六頭宛塔載の貨車に乗せ、鎧戸を閉め切っての極秘の輸送であった。
 神戸で馬匹を貨物船に積み替え、釜山下船。釜山では平○雄さんと言う果物店稚内から来たという鈴木上等兵と一泊した。釜山で隣りあわせの馬繋場で歩兵隊の馬当番をしている一つ星に何所から来たのかと聞いたら大正村愛国の高○○道さんと言っていた。その人も沖縄で戦死された。又馬を積み込んで目的地へ向かう。
 大陸の鉄道は車両が大型で一両に馬匹十二頭積める。北海道の兵隊は馬匹の塔載作業が大変上手だと停車場司令官が賞賛していたと後から聞いた。
 釜山より西東安迠(まで)何粁あるのか、満州の広野を只管走り続けた。八月十四日夜半西東安に着く。この頃早やうすら寒い季節になっていた。光の届かないようなうす暗い電灯の下で七九五部隊の営庭で到着した兵隊を荷物を分けるように所属隊に区分してくれる。
 輜重隊であるため第一大隊本部に編入になる。
本部編成は半数は砲兵で指揮班。あと半数は大隊行季(こうり)と言い輜重車に大隊の設営材料と食糧を運搬する任務である。
 関東軍特別演習により関東軍も七十万の兵力に膨れ上がった、と言われたが、我が部隊は三千人と言うからどのようになったか我々には想像もつかない。従って平時編成より戦時編成になり、私は中支時代の経験から一大隊本部の庶務室に勤務することになる。

                            つづく


 関東軍特別演習とは、満蒙国境警備、ソ連軍侵攻阻止を名目とした、関東軍の兵力増強のことです。
 満州の東安は、今のウラジオストクの北に位置していて緯度は稚内とほぼ同じくらいです。西東安には関東軍の大規模な陣地があり、ソ連と対峙する国境の街でした。
 千頭を超える馬匹とは、一般農家から買い上げられた農耕馬を軍馬として大陸へ送られたものです。戦後になっても一頭も帰ってこなかったとのことです。
 

 満州のこと、支那事変のことなど調べている途中で有用なサイトを見つけたのでご紹介します
 ひとつは全国戦友会のサイト「終戦五十年【孫たちとの会話】」です。実際に戦った方々の思いがわかりやすくつづられています。
もうひとつはNHKのビデオアーカイブス「戦争証言」です。時間が出来たらじっくり観てみたいです。