八十三年の記憶 -6-


三、青春の試練   満州

 庶務室では部隊副官村○勇砲兵中尉(後日召集でサイパンへ往き戦死)甲書記小○○郎砲兵曹長(沖縄戦死)福○○一砲兵軍曹と藤○○男君と私の四名、
隣室では大隊長佐○○吾砲兵少佐(台湾で中佐で終戦、平成十一年徳島穴吹で死亡)であった。時々聯隊教育委員室に呼ばれ書類づくりをした。一番身に余る光栄と思ったのは部隊の隊員で死亡した兵隊に勲章が下りたので墓標に書き入れる部隊長の揮毫(きごう)が欲しいと墓標石の大きさ書き入れる字の大きさなど実物大の用紙に希望字を報せてきたのでその石塔は聯隊長名前で群馬県に送ったこと思い出に残っている。
 私は平素事務室で勤務しているが、動員に入れば大隊行季長で輜重車六十七車両、分隊長四名、補助兵一名の部下を乗馬で指揮する任務を命ぜられていました。
 途別の同年兵和○○作君は第三大隊行李班で兄和○○作さんは第三大隊段列で蹄鉄工務兵でした。毎日聯隊の獣医室に通っていました。

 今に起きるであろうソ連との対峙も三ヶ年も過ぎ実役の古い者から帰還することになり、私もその仲間に入り昭和十八年十一月三十日西東安出発、同十二月十五日旭川で召集解除となる。
 私たち帰還の時第三中隊の○○重栄君が西東安まで見送りに来てくれました。之がお別れになりました。古舞出身で昭和十七年に入隊した重栄君も立派な二等兵となり両手を腰の後ろに当て初年兵を教育していたあの姿が目に浮かびます。
 

 我が野砲兵第四十二聯隊とは関東軍に増設された第二十四師団の野砲兵聯隊として昭和十四年十月十日南満州の海域において編成されました。満州第七九五部隊と呼称され満州国東安省西東安に駐屯して国境警備に任じておりました。
 所が私たちが帰還後、昭和十九年二月、一ヶ大隊(第三大隊)三百余名を南海の孤島メレヨンに送り出した後、同年動員下令により南西諸島防衛のため沖縄本島に出動、翌三月末進攻した米軍を迎えて死闘三ヶ月に及びましたが、遂に刀折れ弾丸尽きて六月を以って玉砕、創立以来六ヶ年に満たない歴史に終焉を遂げた部隊であります。

                    つづく


 義父は、一回目の出征が昭和14年5月から15年12月までの1年7か月間、二回目の出征は、昭和16年7月から18年12月までの2年5か月間でした。まだ戦争が終わらないうちによくぞ帰って来れたものだ、と思います。もし帰還できてなければ、部隊と一緒に沖縄の最前線へ赴くことになったでしょうね。

満州国は義父が帰還した後、昭和20年8月終戦直前にソ連から攻め入られ、同8月17日に皇帝溥儀が退位し滅亡することとなりました。70万もいた関東軍の大部分が南方に転進した後ですから、ひとたまりもありません。残っていた関東軍武装解除捕虜となり、シベリアへ抑留されることとなります。ソ連の強制労働による死者は25万人とも言われています。