八十三年の記憶 -7-

四、我が部隊 沖縄に散る

    沖縄戦参加 総人員 二三〇三名
    戦死広報 二一〇八名
    転出 一九名
    米軍上陸前の戦死者          七名
    生死不明             一名
    復員             一六八名

 昭和二十年五月末撤退時砲兵山の聯隊(れんたい)本部にあった西沢部隊長は「回帰熱」とかのかなりの高熱が続き衰弱するばかりであった。沢山○○部隊副官がつきっきりでいたが遂に回復することのないまま六月二十一日の馬乗攻撃を受けて二人共真壁(まかべ)八三高地の壕の中で散華(さんげ)したのであった。昭和十四年部隊創立以来の聯隊長であり、二千三百余名の部下を率いて出陣し卓越した指揮ぶりを見せたが不幸にも熱病に侵され志半ばにして部下の後を追うことになった。
 陸軍大佐 西沢○○(二十三期)激戦地真壁に散る  四十九歳であった。
今は故郷 山形県米沢市名刺 長泉寺によき伴侶であった○○さん(五十年一月没)と共に静かに眠っている。


 私は予てより一度は沖縄に旅行してみたいしその折には部隊の慰霊碑に参詣しなければと念じていました。
 遂にその機会を得、平成二年十月二十五日〜二十八日、我が山三四八〇部隊の終焉地糸満市真壁仲間原にある慰霊碑に詣でることが出来ました。

この事は観光のコースにはなかったのですが、ガイドの計らいでツアーの皆さんに事情を説明したところ所、大拍手で私一人のため賛成して呉れたんです。西東安在隊中二ヶ年半身の上話を語り合い起居を共にしたアイウエオ順に刻み込まれた戦友の名前を見たとき在りし日の若い顔が浮かんできました。戦死者二一〇八名が故郷の方向をじっと見つめていました。之が天皇陛下の御為、東洋平和の為ならば、何で命が惜しかろうと歌いながら入隊してきた若者がこの灼熱の南海の孤島に戦争の犠牲になった変り果てた姿かと………

 幕別出身戦死者氏名 (この部隊だけで)

中隊名       氏名     戦死月日     戦死場所
第一大隊段列   粟○ 基    6.22       新垣
四大隊本部     稲○ 勇    6.22       真壁
聯隊本部      折○ 功    6.26       新垣
第一中隊      小○○ 誠   5.10       平良
第一大隊段列    岡○○吉    6.22       与座
第十中隊      大○○三    1.22       病死
第十中隊      大○○勉    5.20       新川
聯隊本部      島○○雄    6.22       真壁
第五中隊      成○○稔    6.20       与座
第三中隊      ○○ 重栄   6.23       真壁
第十一中隊     矢○○ 保   6.20       真壁
第二中隊      渡○○宏    6.20       新垣
       幕別生存者なし


 「回帰熱」とはダニやシラミによって媒介される細菌(スピロヘータ感染症のことです。「馬乗攻撃」とは、洞くつの中にいる日本軍や沖縄民間人の全員殺りくを目的としたもので、爆薬を投げ込み、入り口から火炎放射器を浴びせる、米軍によるきわめて残酷な戦法でした。義父が属していた軍隊は沖縄に転進し、この攻撃によって玉砕することとなったのです。ほとんどが北海道から出兵して行った人々でした。
 先日紹介したNHKのビデオアーカイブス「戦争証言」の中に、この部隊のすさまじい体験を描いたものがあります。
沖縄 終わりなき持久戦の結末 〜陸軍第24師団〜

証言犠牲になった住民」 、「見捨てられた少女たち


 また十勝毎日新聞の過去の特集記事「祈りの島 沖縄慰霊の旅」も残っています。