八十三年の記憶 -8-


五、帯広空襲と特設警備隊

 昭和二十年六月二十五日防衛召集、幹部教育のため釧路地区第三〇七特設警備工兵隊(帯広柏校)に入隊。同二十九日召集解除。同年七月十一日防衛召集、兵教育のため同隊に応召。
 昭和二十年六月。その頃戦争も末期となり本土爆撃、租界、物資欠乏と種々条件が悪化、敗色濃くなり、本道の襲来に備え釧路地区特設警備隊(司令官 助川○○少尉)が釧路にて編成され、配下として釧路二、北見二、帯広二の特設警備隊が配置され、帯広では啓北校と柏校に召集された。
 満十八歳の青年「すでに海軍航空隊、予科練に志願して入営した者が多数いました」が敵が広尾、大津に上陸して来た場合、戦車撃破のため人間爆弾の訓練に余念がありませんでした。
 兵役法が改正になり十八歳で簡閲点呼を受ける事になり防衛隊に入隊しても陸軍二等兵の階級が与えられるようになっていました。
 防衛召集で柏校に応召した幹部の方で記憶にある方では、隊長金沢?中尉、?見習士官(東京)、武○○二伍長(短現伍長、野塚気要員、のち士幌中央中学校校長、白人中学校校長)、成○○郎伍長(下士幌)、編○○次郎曹長(元古舞校の先生、豊北校長)、山○○夫主計曹長(大正)、奥○○郎曹長(大正)、森○夫曹長(大正)、有○博軍曹(川西)、中川?軍曹(川西)、長谷川○○軍曹(幕別)、泉○○軍曹(幕別)、高橋実吉伍長(幕別)、横野?軍曹(大津)、川本?軍曹(清水)、藤○○男軍曹(鹿追)、道○○六伍長(大正)などが幹部としていました。
 全員戦地経験者ばかりですので帯広空襲の際も兵の士気を鼓舞しともに君国のため尽くす覚悟で頑張っていました。
 幕別町からは三十五名の兵員と幹部下士官三名の隊員が召集を受けました。古舞では私と富○○夫、佐○○夫、片○○雄、前○○男君の五名でした。
 その頃になると空の方も険悪になり「訓練北部防空警報」でなく、本物の北部空襲警報が釧路特設警備隊本部から寸断なく連絡される様になりました。
                                   (つづく)


 義父は、満州から帰還した後、地元の在郷軍人会に属していたのですが、昭和十九年、本土防衛のために会が自主的に防衛隊を組織したので、それに入隊することとなりました。

昭和二十年三月に、新たに日本陸軍が組織した特設警備隊に移行すると、その中の帯広防衛のための部隊に召集されることになりました。当時の小学校の校舎を軍隊が使っていたんですね。