八十三年の記憶 -9-


五、帯広空襲と特設警備隊


 昭和二十年七月十五日朝食後けたたましく鳴り響く本部防空警報が空襲警報に代わった「北部空襲警報、敵艦載機七十八機(そのように記憶している)只今大楽毛上空通過、帯広方向に進行中」
間もなく敵大編隊が轟音を靡(なび)かせて帯広上空通過その侭(まま)狩勝を越え旭川方面に飛び去った。私は柏校附近の防空壕に今に起きるであろう事態を想像していた。この時旭川上空を旋回した敵グラマンの大編隊は数分後再び帯広に舞い戻り悠々旋回し始め防衛隊の所在地柏校と啓北校を目標に機関砲弾を撃ち込む。
 下音更高台にある高射砲第二十四聯隊(北部第九一部隊)に爆弾を投下して釧路方向に爆音を一段と靡かせて飛び去って行ったと思った…が…その日は空一面白雲に包まれていたので、帯広の代わりに本別市街が誤認され空襲を受け(死者三十五名、負傷者十四名、全焼戸数三七九戸)と甚大なる被害を蒙ったのであった。
 この時の被害は新吉野、同駅、本別市街と帯広では私らが起居している柏校では板壁に砲弾が撃ち込まれたのと隊員の外套が焼け焦げていたのと啓北校の防衛隊員が二名負傷したとの事であった。
 高射砲隊からの発射されている砲弾も敵機に命中することもなくただ空中に黒い花びらを咲かせているだけであった。その模様を柏校の防空壕より眺めていた。
 時折り雲間から盛夏の陽が差していた。
 十勝の住民も初めて戦争の恐ろしさ、空襲のすさまじさを身近に感じさせられた。ほんの一瞬のアッと言う間の出来事だった。古舞の部落でもその日丁度一ヶ月繰上げの馬頭観世音の祭典を行っていたが、古舞のから五名防衛召集で勤務している柏校上空を旋回している敵機の大編隊を遠く眺めて肝を冷やしたと後から聞いた。
 さあれ私も二度戦地に参じたけれど、何れも勝ち進んでいる戦況だったので、この時ほど戦場となる土地の悲惨さを味わった事はなかった。
 私ら防衛隊の宿舎は柏校と啓北校に当てられていたが隊員達は十勝支庁横の炊事場から上がってくる七分搗き米に大手亡半分と言う食事をしながら、空襲警報の発令にならない日は昼夜を分かたず帯広神社境内や根室本線広尾線沿線に這いつくばって演習に明け暮れたが、柏校の職員室では職員たちは授業もそこそこに教室内の机や備品を運び出し物陰に遮蔽させていた。職員室にはラヂオと電話による連絡網が敷かれていた。
 帯広町民も昼間は一歩も外に出る者はなく室内や防空壕で過ごし、夕方より夜半にかけて家財道具を札内川堤防に荷車で間隔を距てることなく運び出していた。若し住宅が焼かれても家財道具だけは残るとの気心からでもあった。時折り広尾線伝いに艦載機が帯広目標に飛来するようになり、七月十四日朝、帯広駅も空襲を受けた。茲(ここ)に至って郷土十勝も容易ならぬ事態が目前に感ぜられるようになった。思っただけでもいけない事だったが…。
 こんな事でいいのだろうかと不吉な予感が脳裡をよぎりました。犠牲になられた方々には誠に申し訳ありませんけれど帯広市もあれ以上襲撃されたら広島、長崎と同じ運命になった様な気がしていました。
この様な事は当時日本人として思ってもならない、又(また)、口にしてはならない事でした。
(つづく)
 昭和二十年三月十日の東京大空襲では十万を超える人々が殺されました。その後本土空襲は全国に広がり七月十四、十五の二日間で北海道各地の、戦略上全く意味のない農村部まで攻撃されたんです。
 誰が考えてももう敗戦しかないのに、まだ戦わなければならなかった、十勝のこんな田舎でも「一億一心、撃ちてし止まむ」だったのでしょうか。
 帯広空襲は十四日に帯広駅、十五日に西一条一丁目あたりに爆弾と機銃掃射、死者5名、損壊家屋60戸という被害を出しました。駒畠上空に敵機が飛来したのは十四日のことです。
 写真はのちに建立された記念碑と義父です。

 今日は「二百三高地」という映画を見てました。日露戦争を描いたものです。戦争とは、勝とうが負けようが双方に多くの犠牲者を出し苦しみをもたらす、そんなことはわかっているのに一度始めたらなかなかやめることが出来ないものなんです。
 なんでも首を突っ込みたがるアメリカがシリアに軍事介入をすることを示唆、それを日本も支持するとか…信じられないですよ。先の戦争でどれほどの犠牲者を出したか、日本はもう忘れたのでしようか。アメリカをいさめるぐらいのことをしてみろ、と言いたいです。