豊頃村安骨

 明治38年、私の曾祖父母は富山から北海道へ渡ってきました。最初に入植したのが十勝川沿いの豊頃村安骨(あんこつ)というところでした。大正13年にここ幕別村奥糠内へ移住するまでの間、安骨の地になにか足跡が残っていないか、それがとても気になり、昨日豊頃町茂岩にある「える夢館」へ行ってきました。図書館、郷土資料館のほか会議場などを備えた文化施設です。

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 豊頃の十勝川沿いは川の氾濫の歴史でもありました。安骨もたびたびやられて畑や人家など多くの犠牲がありました。氾濫の無い土地を求めて祖父たちは駒畠へ再入植することとなるのです。安骨は一時は小学校もあったほど人口も多かったのですが、今は人家少なく牧草地等が広がっています。17年程前に父等と元暮らした場所を探しに行ったことがあります。
 安骨小学校の記念誌など探したのですが残ってないらしく、祖父たちの安骨での足跡は残念ながら見つけられませんでした。ただ図書館所蔵の資料と父や父の従弟が書き残した文章が妙に符合するところがあって、ちょっとワクワクしました。

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 図書館所蔵の「豊頃村郷土資料集」の安骨の部より

 …(中略)…橋本甚三が一番初めに入地しました。次いで…(中略)…等が相次いで入地し、更に清水~、長崎梅次郎の両人が入地して、人家が14戸となりました。明治37年に石田~等、富山県人5戸の入地などあって戸数もだんだん増え定住者36戸になりました。…(中略)…、

 駒畠公区80周年記念誌「翔ぶが如く」の堀内家の歴史を紹介する父喜典の文章より。

 先々代喜三治は、明治38年富山県針原字今村より、豊頃村安骨に入植、長男新平7歳のときである。約5町歩を小作していたが、度重なる十勝川の氾濫で、農作物はもちろん家屋、馬までも流された。
 大正11年喜三治没後、二代目新平に後継され、大正13年弱冠26歳の時、10町歩の払い下げを受け現在地に入植。…後略…

 また父の従弟堀内幸夫氏が調べて残した文章の中に、"喜三治は先に渡道していた長崎栄二郎を頼って入植した"、とあります。長崎栄二郎というのは長崎梅次郎のことではないか、などと想像しています。そうであれば安骨に入地した「富山県人5戸」の中に曾祖父堀内喜三治が含まれている可能性もあるように思います。もうちょっと今度は別の方向から探ってみたいです。